ビタースイー糖

見通しが甘いことでお馴染み砂糖のブログ

好きなものの話(山月記編)

どうも砂糖です。

 

今回は不人気コーナー、自分の好きなものを取り留めもなく語る記事です。今回は中島敦の『山月記』です。こういった作品に関しては、各々解釈の違いがありますので、解釈違いの方は介錯して差し上げます(激ウマギャグ)。

 

さて、この山月記は教科書で読んだ方も多いでしょう。何より「その声は、我が友、李徴子ではないか?」という一文だけやたらと有名ですね。あらすじを簡単に紹介します。

李徴という男は、若くして科挙という試験に合格し地方の役人になるほどの人物でありましたが、持ち前のプライドの高さからその地位に満足せず、詩人として名を残そうとしました。だが箸にも棒にもかからず、生活は困窮し、妻子の為に地方役人の仕事を貰いました。しかし同期や内心見下していた凡人に指示される立場になり自尊心はズタズタ、ふさぎ込むようになったある日、出張先で川の近くに泊まった際に発狂し、夜闇の駆け出し二度と戻ってきませんでした。

これが冒頭のシーンです。その後大分端折って説明すると、プライドの高さから友達が少なかった李徴の親友、袁傪が虎と成り果てた李徴と出会い、虎になるまでの経緯、そうなってしまった理由の李徴なりの答えなどを話し、最後に世に出せず歴史に埋もれてしまうであろう李徴の詩を袁傪に託して、最後に浅ましき獣の身になった姿を見せ、咆哮をし山へと消えていく話です。

 

あらすじで割と長くなりましたが、この李徴という男は確かに非凡な才能を持っていました。科挙に合格する実績も残していますし、袁傪に詩を託すシーンでも袁傪は一読して作者の非凡が分かると感想を抱いています。しかし、袁傪は同時にこうも思っています。一流の作品となるにはどこか微妙な点において欠ける物があるのではと。恐らくこれがこの山月記において、大事なポイントなのではないかと自分は思っています。

現代でも割といますよね、才能溢れる創作物などを作っていても世に認知されていない人。運なのか、世間との流行の剥離なのか、それともその人の人格が透けてしまっているのか。この李徴の場合は恐らく一番最後が原因かと思います。彼は、人は誰しも心に猛獣を飼っており、それとの接し方こそ、各々の性格や心のあり方になると言いました。それが彼の場合、臆病な自尊心と尊大な羞恥心だったのです。

臆病な自尊心とは積極的に先生について学んだり、詩で名を残そうという者と交わり才能を磨き合うこともしなかったこと。尊大な羞恥心とは才能が無いことを恐れ努力をせず、しかし才能があると信じ込んでいた為に凡人の中に紛れて生きる事も出来なかったことです。この二つは彼の中で飼いふとらされ、そしてその姿こそ虎だったと李徴自身が言いました。

詩を託し、自ら残した妻子の身の保障を袁傪に頼んだ後、彼はこのように獣の身になっても妻子より、まず詩を優先してしまった己の愚かさ、浅ましさを自嘲します。そしてこれこそ獣に身を落とす原因の一端だと。

袁傪が感じていた何か一流になれない欠けている部分、それがこの部分ではないかと思います。李徴は己の才能を過信する節はありますが、己自身はあまり信ずることがないように思います。この辺りに彼が突き抜けられなかったことが悲劇の種を蒔く結果になったと自分は思います。

 

あまりまとまりのない文章になりました。好きなものに対しての文章力がなさ過ぎますね。なんとかその辺りの力を上げれたらなと今回思いました。

 

虎になる前にこの辺りで仕舞いとします。

 

次回更新をお待ちください。